❝ 月下陽香からのおしらせ ❞

  ♪:*:.:*:♪ ・らいぶ情報・ ♪:*:.:*:♪

     ❤ 2017年2月11日(土・祝)
大阪市中央区・なんば駅すぐ  LIVE Space 「 音(オン) 」
※ 料金¥1000-(選べる1ドリンク&1フード付き)
18:00 オープン  19:00 スタート
★月下陽香&井上タイキ・HAT TREAT ツーマンライブ!!

     ❤ 2016年11月6日(日)
大阪市北区・東梅田駅~5分  Live Bar 
「 B-flat 」
※ 料金¥1500-+1ドリンク別途要

     ❤ 2016年5月22日(日)
大阪市北区・東梅田駅~5分  Live Bar 
「 B-flat 」
※ 料金¥1000-+1ドリンク別途要

     ❤ 2015年12月25日(金)
大阪市中央区・なんば駅すぐ  LIVE Space 
「 音(オン) 」
※ 料金¥1000-



  ♪:*:.:*:♪ ・CD情報・ ♪:*:.:*:♪

  ◆ ファーストシングル ・ 花いばら ◆
            2曲入り ¥500-
            2014.5.24 発売
花いばら

  ◆ セカンドアルバム ・ 生きてるからね。 ◆
            6曲+1曲入り ¥1000-
            2011.8.21 発売

いきてるからね。

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愛憎に壊れゆくもの。(卒業後・60)




前夜の雨が上がり

温かかった日曜日。


朝から仕事に追われ
今日もくたくただった
心と体。



そんな中

堺から届いたプレゼント。


淡いピンクのコサージュ。


後ろの袋はギタリストさんに。




寒い中
忙しい中
お便りまで添えて

送って下さった事が

すごくうれしくて
有難くてたまらない。



いつもありがとう。
ほんとにありがとう。



体調はどうかな・・。
無理してないかな・・。

彼女の細やかな気遣いと
美しい笑顔を

私はいつも思い出してる。











2013年から

月下陽香が
ステージの上で
必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって
「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の 私)】
   ※現在執筆中。



過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私を書き記して在る途中。



前回の記事。

【「その手で握り潰して。 」(2014.2.1)】

この続きを今日も少し書こう。




二号店がオープンして
しばらくは

本店・二号店共に顔を出して居たママは

だんだんと
店に現れなくなっていった。


開店前には

釣銭の補充や
支払いの段取り等

私とのミーティングも兼ねて来ていたけど

店が開く頃には居なくなった。



ママは
「オーナーママ」となり

本店は私がママとなった。

旅館で言えば
「大女将」と「女将」
  みたいなもん ね。



それにしても

本来
「オーナーママ」ってのは
「オーナー」の事を言う訳で。。

出資者は男だから違うんやないの?

なんて思いながら


体で稼いだってことやから

じゃあ「オーナーマ マ」で間違ってないのかな。。

なんて

私は思ってた。




店は

何も知らない客からみれば

繁盛して規模を広げてるように思えるだろうけど

裏側は
明らかにおかしくなっていた。
崩れる前の匂いがし始めた。



オーナーママの男は頻繁に店にきた。
彼女の行方をしつこく聞いた。


今思えば

この頃のオーナーママは
いろいろと準備をしてたんだろうね。


本店も二号店も金を出したのは男だ。
その男が居たから店も手に入れて
どんなにオーナーママの金遣いが荒くても
店は成り立っていた。



でも彼女には新しい男が出来た。
建設会社の社長と言えど
決して金のある男でもなかった。
だけど愛してしまった。

男の金じゃなくて
男自身を愛してしまったのがわかった。

新しい男と居る時のママは
本当にしあわせそうで可愛らしかった。



オーナーママに2軒の店を持たせた男は
田舎の地主で妻子持ち。

とても傲慢で嫉妬深い人だった。

散々金を出させた女を
簡単に手放しはしないだろう。

縁を切ればママは店を失う。
それだけでなく
恐らく男は
出店に要した金の回収を求めるだろう。




ある日。

開店前にオーナーママと話していたら
男が入ってきた。

オーナーママを怒鳴り付け
椅子を持ちあげ投げ付けた。


男が出来たんだろう。

お前にどれだけ遣ったかわかるか。

馬鹿にするな。


たくさんの罵声が飛んだ。

ママは何も言わなかった。


男は私にも問い詰めてきたけど
私も何も言わなかった。




この店はもう長くはない。
そう確信をした。

私は
誰にも言わずに
独立の準備を具体的に始めた。




過程を綴る記事は
そろそろ
20代後半の私を綴り始めようと思う。

続きは次回。











私が10代の頃。
すごく思ってた。

30歳なんて「おばさん」だって。

30代は大人なんだって。

そして。

そんな歳まで生きるなんて
絶対に嫌だって思ってた。



30歳になった時に思った。

まだ生きてしまってるんだって。


なのに私は
まだ大人にはなれてなくて。

この先どうすればいいの?って。




自分だけが劣ってるようで
怖くてたまらなかった。

摂食障害と自傷の中で

自分は
周りの誰よりも

愚かに思えて

苦しくて仕方なかった。




特に

私のように

成長の過程でとても重要な体験を
大きく不足したまま
歳をとってしまった人間は


満ちる事のなかった時代の後遺症を
リアルに感じながら

未完成な自分に
頭を抱える事が非常に多い。




環境や過程で個人差はとてもあるけれど

きちんと与えられて育ち
大人になった者ならば

消化し対応出来るだろう事にも

その都度悩み

劣等感や疎外感に襲われ

躓いてしまう。



私が10代の頃
両親は20代~30代だった。

大きく欠かしたまま
人として問題のある状態で
大人と言われる歳となってしまった両親は

間違いなく子供であり

壊れた大人で在ったろう事が
今はわかる。


彼らの心には
いつも不安と不満が溢れてた。

不足はいつも
自分よりも立場の弱い
自分にいちばん近いところに居る

子供に向けられた。


この両親の下に生まれ落ちた私には

始めから
その不足を背負わされていたと思える。


両親は
それぞれに
自分が足りていない事は
理解していたと思う。


でも

何が原因でそうなり
自分に足りないものが何なのか

理解しようとしなかった。


いつも
都合の良い言い訳を並べ
矛盾を押付け

一時期の消化ばかりを繰り返していた。




私はそうはなりたくない。

自分を壊した両親と
同じように生きたくはない。




毎日毎日
自分に問うて

その日
出来る限りの努力をして


ひたすら
その繰り返しを続けながら


それはとても苦しくて

いつまで続くのかと
途方にも暮れる。




でも。

このままで死ぬのはゴメンだ。


私は
私の大好きな私になって

心の両腕いっぱいに
抱えきれないくらいのしあわせを感じて


それを

恨みも
妬みも
僻みもない

ただやさしい気持ちで


伝えてゆける大人になってから

あの世に召されたい。





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その手で握り潰して。(卒業後・59)





今日の大阪は少し温かくて。


駅まで歩く道のり。

どこかから
しゃぼん玉が飛んできた。



昨年の
いちばん最後に立ったステージで


月下陽香は

ライブのオープニングに
しゃぼん玉を吹いて歌ったのを
思い出した。







そして。



思い出した。


昔。

摂食障害と
自傷癖の真っ只中に居た頃に

書いた歌詞。


・・・・・・・・・・・・・・・

離されたしゃぼん玉
陽(ひ)の光に染める肌

輝いた一瞬は
ささやかに抵抗し

風に乗り飛んでゆこう

この姿消えるまで



おぼつかぬ足取りは
独りでは歩けない。

青空への導きは
与えられずはぐれゆき

知られぬ嘆きを叫び

死に逝くが償いか



離されたしゃぼん玉
風に乗り飛んで行く

あの人の腕を断ち
風の隙をくぐりもて

死に場所を探してる

この命朽ちるまで



アスファルトに叩かれて
砕け散る為だけの

言いなりになる私なら
どうかもう作らないで

転がり落ちる前に

その手の平で消して。


どうぞその手の平で

私の姿消して。


    「しゃぼん玉」 月下陽香

・・・・・・・・・・・・・・・



2013年から

月下陽香が

ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。

私にとって「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を


2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。




過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私を
書き記して在る途中。



前回の記事。

【「私が壊れた理由を知れば。 」(2014.1.31)】


この続きを今日も少し書こう。






二号店のオープンが決まった。


ママは
準備にとても忙しくしており

本店にあたるラウンジは
ほとんど私に任されてた。



スナックのママしながら
ラウンジも全て任されてるから

毎日早くから店に入った。


同伴がある日は
客との約束の時間までに
全て終わらせてなきゃいけないから


朝9時頃に家に帰れば
午後3時には店に入ってた。





まだ他のホステスも居ない開店前の店内。

メールや電話しながらばたばたしてると
ドアが開いた。


女の子が来るには早い。

酒屋でもないはずだ。


びっくりして見たらママの男だった。



様子がおかしい。
顔が険しい。



ママは居ないのか聞かれた。
二号店の準備で居ないと答えた。


今どこに居るのか聞かれた。
わからないからそう告げた。



男は

カウンター内で一品を作ってた私の

目の前の席に座って話し出した。



「ママは最近どうだ」と。

「変わった所はないか」と。




私は

男の機嫌だけは損ねてはいけないと
すごく考えながら


念願の二号店を出して貰えて
すごくしあわせそうだと

私達ホステスも
皆感謝していると伝えた。



男は明らかに何か疑っていた。

でもその日は帰って行った。




二号店が開店した。



二号店のママの客と
賑やかに騒いで飲みたい客は

そこに流れて行った。



本店のラウンジは

そこに働くホステスの客と
ゆっくり静かに飲みたい客が残り

また
接待等で使われる事が増えた。




開店すぐは

ママは
本店のラウンジに顔を出しながら

オーナーママとして
二号店にも顔を出して居た。



でも
次第に
店に出て来なくなっていった。




男だと思った。



最近頻繁に来てる建設会社の社長。

ママはとてもうれしそうで
どこか違った。


新しい男が出来たんだと思った。



巻き込まれそうな
嫌な予感がしてた。





ある日。

ママが言った。



本店の「ママ」を
引き受けてくれないかと。



色々と忙しくなってきたから


自分は
オーナーママとして裏方に回りたいと。



行く行くはここを渡すから

そのつもりでママをして欲しいと。





ママの事は大好きだ。

でも

私は

飼われてじゃなく
どんなに小さくても
自分の力で店を持ちたい。


お下がりの尻拭いをするつもりは無い。



でも

「雇われ」のママならやろうと思った。

本店のママになって
今の内に
独立の準備を急いでしないといけないと思った。



続きはまたね。












今日のふたつの写真。

これは去年頂いた鉢植えでね。



うちに来た時は
たくさんの赤い蕾を
着飾ってやってきた。


来てすぐに私は

この子を
ひと回り大きな鉢に植え替えた。

何にも知らずに。



それは間違いだった。


この子はストレスに弱い。



生活の場が変わっただけで
枯れてしまうほど

繊細な子だった。



幸い枯れはしなかったけど


植え替えた途端に
次から次へと

育て
抱き締めて居た蕾を

落として行った。



昨年
この子が咲かせた花は

1枚目の写真

この1輪だった。



以来
植え替えをせずに
1年見守ってきた。


まだ色付きこそないが

2枚目の写真



今年のこの子が生み出した
たくさんの蕾を纏って在る。




ごめんなぁ・・。

すごいなぁ・・。

ようがんばってくれたなぁ・・。


がんばろね。


がんばろね。



毎日声を掛ける。


咲くのが楽しみでたまらん。



すごいなぁ・・。



辛かったやろうに

怖かったやろうに

痛かったやろうに。



こんなに
こんなにたくさんの蕾を

抱き締めて


冷たい冬に
間もなく咲こうと
してくれてるんやね。




私ね。

今すっごい大変でね。

ぶっちゃけ辛い訳。


でも。

がんばるんよ。


この痛みにも

いつか必ず


花を咲かすんだ。



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私が壊れた理由を知れば。(卒業後・58)




今日で1月が終わる。


まともなオフも無く
ひたすら我慢してがんばって居る。


今はそれをしなきゃいけない現状は

理解して受け入れて居 る。


それでも心は息切れをしてしまう。


希望は失くしては居ない。

しあわせもちゃんと感じてる。


でも
限界を超えて
がんばり続けてる心には

小さな出来事が
酷く突き刺さってしまう。


今にも倒れそうな状態で
走り続けていれば

ほんの小さな小石ひとつも
上手く避けられず倒れてしまう。




自分が
ものすごいストレスを抱えてる事がわかる。

このスケジュールはまだしばらく続く。


そこまでがんばったら
少しだけ休もう。

がんばってる自分に

ご褒美をあげよう。





とても荒んで居た
昔を振り返れば

今とは
環境も考え方も違う当時

働き続けながら思ってたなぁ・・



全て自分で賄わなくても良い人は
いいよねって。


あくせく働かなくても

今日暮らす家が在って

そこで1日中寝転がって居ようが
行きたい場所に行って帰って来ようが

それらは自由で当たり前で。


そこには眠る布団が在って
食べる物があって。


そんな環境を
与えられてる人はいいよねって。


今日1日をここで暮らす為に
いくらの
家賃が
光熱費が
食費が

必要か

考えなくてもいいんだろうなって。


私は
若い頃から
与えて貰える環境を持っていなかったから。

どんな事しても
自分の力で何とかするしかなかったから。


甘えられる人が羨ましくて

妬んでたなぁ・・





私の現状は
かなりもがいて在るけれど。


昨日は通院したり

夕べも猫と枕の取り合いをしたり。


自分が
やりたいと思う仕事をして
得た収入で暮らせる事。


お腹が空いて食事をしたり

切りたいと思わずに
痛みと向き合ってたり。


しんどいけどね。

しあわせだと思う。


この毎日を得る為に
努力してきた自分に

がんばれてるよって思う。


そして。

だから書ける歌が在るんだよって

私は私に言える。











2013年から

月下陽香が
ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって 「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。






過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私を書き記して在る途中。


前回の記事。

【「熟れた体を晒してまでも。 」(2014.1.29)】


今日はこの続きを書くね。







勤めてた店のママがやってる
コンパニオンの会社で
1日だけバイトしてみたけど

私のしたい商売ではないと思った。

コンパニオンは1回切りで辞めた。




しばらくして
ママに食事に誘われた。


ラウンジ閉店後は
朝までスナックを始めたから

以前のように
ママと食事にも行けなくて
少し久しぶりだった。


スナックを臨時休業させて貰って
ママと出掛けた。



噂はちらほらと聞こえてた。
ラウンジの二号店の事。
ママの口から
改めてその報告を受けた。


二号店の場所を決めたらしい。

ラウンジから徒歩5分くらいのビルの2階。

カウンター5席と
ボックス席2つの小さな店で
ラウンジではなくスナックにするとの事。



前回の記事に書いた
コンパニオンとして行った宴会場で

はしゃいで自ら服を脱ぎ
パンツ1枚で大騒ぎしてた先輩ホステス


彼女を
そこのママにしたいとの事だった。



彼女は

ママが田舎でスナックをしていた頃から
働いていた人。


陽気で気さくで
客もたくさん持っていた。

私には出来ないくらい
体も張っていた。

ふたりの男の子を育てる為に
戦ってたんだよね。


彼女は独立を考えていた。

彼女くらいになれば
時給なんぼで雇われるよりも
独立した方が収入も上がるだろうから
当たり前の選択だろう。



ママは
彼女を手放したくはなく


二号店の出店も強く望んでいた。


そこで
彼女をママとして雇う事で

ふたつとも叶えたかった訳だ。


彼女にラウンジは任せられない。
だから二号店をスナックにした。



この二号店のママは
彼女に譲って欲しいと言われ た。





なるほどって思った。


ラウンジ閉店後
ママとしてスナックをしてる私が


ママの掛け持ちをするのは

実際難しい事も
自覚して居た。


それをきちんと
1対1で話してくれるママに
大切にされている事も感じ取れた。





別れ際ママが言った。

もう少ししたら
ラウンジの「ママ」を私に譲りたいと。



なぜそんな事を言い出したんだろう。


一号店を
こんなに早くに
譲ろうと考えて居る理由が

読めなかった。


ただ。


何か起きそうな気がしてた。


続きは次回。












人の生きる道を
1冊の国語辞典に例えてみるね。


「あ」から
順番に並ぶ言葉たちは

全ての経験ってとこかな。



幼子が
両親から与えられながら
体験してゆく

「あ・い・ う・え・お」



それらが揃う環境が
私には無かった。

矛盾に振り回されながら
顔色を伺い
押し殺した揚句

早く自立しなければいけなかった。



「あ」の次は
「う」だったりする
私の幼少期の辞書は

あちこちが空白だった。



小学生中学生と
成長してゆく過程でも

私の辞書はあちこちが空白だらけ。


「か・き・く・け・こ」は
「かき・・こ」だったり

「さ・し・す・せ・そ」は
「・・す・そ」だったりね。




あちこち穴だらけのまま
大人になってしまった。



ひとつずつ揃えながら
順番に育った人達よりも

幼児期に叩き込まれた
恐怖に萎縮したまま


受け入れられなかった
幼児性を捨てられぬまま


体だけが大人になった。




息詰まり
行き詰まる度に

人は

それまでの経験から答えを探そうと


人生の辞書の
過去のページをめくる。




だけど

私の辞書は空白だらけで

白いページをめくる度に


不安や不足は露わとなり

出口を失ってきた。




私が
長い年月

摂食障害と自傷と共存した理由は


この空白のページに
在るように思う。


これが埋まらない限り
私は痛み続けて生きてしまう。




ならばこれを埋めれば良い。


でも。

それが半端なくしんどい。


与えられて得るはずのものを

自分で探して
見付けて
得なければいけないから


ものすごくしんどい。



とても悔しかったり
悲しかったり

腹立だしく思ったり

情けなさに落とされたり。


叫び声を上げて
暴れたくなるような感情にもなる。






私の辞書はまだ穴だらけ。

毎日毎日向き合ってるのに

まだ穴だらけ。



すごく辛いけど

きっと
ひとつ埋まる毎に

私は

今日よりも
私を好きになれて


今よりも
しあわせになれると


信じて生きて居る。



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熟れた体を晒してまでも。(卒業後・57)




私の両親は
とても偏り不足して居た。


母の中には複数の人格が共存しており

その都度入れ変わりながら

共通して居た抑圧と束縛を
私に与え続けてた。


自分の思い通りにならぬ者を許さず

自分の痛みには過敏に反応しながら

平気で人を傷付けた。




父は

自分の両親を嫌い


自分の学歴や収入に

大きなコンプレックスと
激しい劣等感を持ち

それを克服する方法はいくつもあったのに

その努力をカッコ悪いと拒絶し

変われぬ事を人のせいにしながら
常に私に依存した。



今の私から見れば

このふたりは
悲しい程に哀れで迷惑な存在だ。




でも
幼い頃の私はそうは思わなかった。

我慢して

萎縮して

一生懸命愛されようとしていた。



そして。

摂食障害者となり
自傷癖者となった。











2013年から

月下陽香が
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「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって 「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。



摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。





過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私を書き記して在る途中。



母が
父が
この歳の頃には
私がもう産まれてたんだね。

その頃の私はまだ幼すぎて
残る記憶は無いけど

母と父は
自分達なりの子育てを

時に幸福に感じたり
時に絶望を想えたりしながら

手探りでしてたんだろうね。



同じ年頃であるこの頃の私は
結婚をして子を産み母となる事を

とことん拒絶して居た。


摂食障害も自傷も手放す事が出来ず

借金に追われて
水商売に捧げてたんだ。



前回の記事。

【「自傷と嘔吐の暗闇を手探りで歩いて。 」(2014.1.27)】

この続きを書くね。






私が
ちいママとして勤めてた店のママは

友達とコンパニオンの会社も経営していた。

大きな会社の
イベントや宴会に呼ばれて

会場に行って
そこで新しい客を捕まえてきてたりしてた。



コンパニオンには
店の女の子もちょくちょく借り出されててね。



ある時ママが
私にも
コンパニオンをやってみないかって言った。


私はあまり気は進まなかったけど

ギャラが良かっ たし
新規の客を捕まえられるかもしれないし
行く事にした。




当日。

まずは店に集合。

制服に着替える。


渡された制服はワンピースで
胸元は大きく開いていて
スカート丈は
膝上20セ ンチはあるだろう超ミニ。

ママには悪いけど
かなり下品で安っぽいなぁと思いながら着替えた。



何台かに分かれて車で現地に向かった。

旅館の広い宴会場。

ママに続いてずらずらと入ってゆく。

Vシネマに出てきそうな宴会やなぁと思った。


左右に分かれて膳を囲むおじさん達。

その前にずらぁーっと並んで正座して
ママの挨拶と共に頭を下げたら
あちこちに散らばってお相手。


胸元から名刺を出して
お酒を注ぎ
寄り添ってお話。

パンツ見えるやろってくらい短いスカートで
横に正座すりゃ
太ももは露わになって

触って下さいって言ってるような状態。


これは
私のやりたい商売じゃないなって
思った。




コンパニオンの中には

同じラウンジでも働いていて

ママがまだ
地元の田舎で商売をしてた頃からの

ママの下では
いちばん古くから働いてる人が居た。


当時の私よりも年上で
離婚して
女手ひとつで小学生の男の子ふたりを育ててる。

客もたくさん持ってる人。

いつも明るくてね。

ニコニコしてて。

ムードメーカーのひとりみたいなお姉さんね。




席を移動しながらひたすら飲んで。

くたびれてきた頃。

客が騒ぎだした。

その方向を見ると
そのお姉さんが酔っ払ってご機嫌になってて。


服を脱ぎ出した。
自分からね。
楽しそうにね。
はしゃぎながら脱ぎ出した。
あっと言う間にパンツ一丁。

「私のおっぱい見て。きれいやろ。」


確かにたわわで綺麗な胸なんだけど。

めちゃくちゃひいた。


60人程居るおじさん達と
20人程居るコンパニオン
甲斐甲斐しく料理を運ぶ旅館の従業員が居る場所で

勢い良く脱いだ上に

客に乳首を舐められ吸われ喜んで居る。



ママを見れば笑って見てた。

ママの本当の姿を見た気がした。



横に居た客が言った。
「おねえちゃんのも見せてや。」


私は
膝に乗せてきた客の手に丁寧に触れて握って

目一杯やさしい声で
やさしい笑顔で言った。

「彼女は脱ぎ担当なんで。私は違うの。ごめんなさい。」




ラウンジでは
いつも上品に接客してた人だけど

コンパニオンでは
毎度はしゃいで脱いで
時に客と別室へ消えるんだって

帰り道聞いた。



彼女なりに
覚悟の上で懸命に稼いでるんだろうけど

私はそこまではしたくなかった。



私は二度とコンパニオンはしなかった。

続きはまた次回。













過程を綴りながら
この数回は
祖父が亡くなった時の事も書いて来た。

【「やさしさが足りてないから。 」(2014.1.23)】

【「いつも卑下しながら。 」(2014.1.24)】

【「自傷に泣いたあの娘に。 」(2014.1.25)】

【「自傷に失ったひとつ。 」(2014.1.26)】



その中で
傷付いてしまった想いも
共に綴ってきた。



痛んだ心と向き合い

なぜ傷付いたのか

この感情にどう対応し
どう納得し

今後に活かせたら良いのか

ひとつづつ分析をした。



引き金は
今回の出来事では無いことに気付いた。


同じような事は
今までにも何度か起こされていて

私は
それらを受け止める努力をして
擦り減らしていた事。



相手が大事な存在であるから

私は
「我慢して飲み込む」と言う感情を

当たり前だと決め付けて行動していた。


相手が大事なら

信じて在るならば

きちんと言えば良かったのに。


「これは迷惑だからもうしないでね。」って

ちゃんと伝えてこれば良かったのに。



想いを伝えてはいけないと考え
飲み込む事を選び

伝えてないから繰り返されて
私の心が折れたんだ。




痛んだ理由が見えてきた。


もう少し静かに考えたら
お手紙でも書こうかな。

大事な人だからね。



体調悪い中
休み無く働いてるから
少し時間がかかりそうだけど。




刻まれた傷の意味を
きちんと知る事で

キズグチには

新しい種を埋め込める。


新しい種は
今回の事が在ったから
埋め込める物。


共に育ててゆけたら幸せに想う。



良いお天気だ。




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自傷と嘔吐の暗闇を手探りで歩いて。(卒業後・56)




私なんか。


生まれてきてはいけなかったんだろうな・・。




最後に聞いたお母さんの言葉は


「お前のせいだ。」



そうだよね。

そうなんだろうね。


お母さんに好きな人が出来て
家族がバラバラになったのも

父さんが
どうしようもない人のままなのも

妹まで摂食障害になったのも


全部

私のせいだって
言いたかったんだろうね。



お腹痛めて産んでくれたのにね

こんなんですみません。




生まれてこなかったら良かった。


なんで死ねなかったんだろう。


生きててすみません。






昔の私の心の中を覗けば

いつもどこかにそんな想いを連れて


摂食障害者であり
自傷癖者である自分を

毎日責めて


自分の環境を目一杯卑下して


いつもいつも
怯えて在ったんだと思う。




出口の見えない暗い闇の中で

手探りでもがいて足掻いて。


ここにいるんだよって叫びながら



いつもいつも思ってた。




私なんか・・。

私「なんか」・・。



この「なんか」って言葉。


今でも私は度々使うけれど

当時の私が
「私」の後に続けた「なんか」とは

意味が変わり始めた事に気付いてる。




もう少し私が私を導けたなら

私はきっと

この「なんか」を

使わなくなれるんだろう。





「私なんか・・。」


そう思い続けてた

毎日嘔吐を繰り返し
体を傷付けて居た頃の私に

今の私が会えるなら
言ってあげたい。




しんどかったね。

辛かったね。

がんばってたね。


大丈夫だよ。
もうすぐ出口が見える。


穏やかな時間が訪れる。


必ず
生きる喜びに溢れる未来に
その足は辿り着くから。

大丈夫だよ。






当時の私に
本気でそう伝えてくれる
大人が居てくれたなら


もっと早くに

何か変わっただろうか。











2013年から

月下陽香が
ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。




過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私の足跡を記して在る途中。


この数回は
祖父が亡くなった時の事を書いて来た。

【「やさしさが足りてないから。 」(2014.1.2 3)】

【「いつも卑下しながら。 」(2014.1.24)】

【「自傷に泣いたあの娘に。 」(2014.1.25)】

【「自傷に失ったひとつ。 」(2014.1.26)】





ホステスとして生きて居た私の過程は

【「危機感に囚われ。 」(2014.1.22)】

ここまで書いたところだね。



今日はこの記事の続きを書いてゆくね。





ものすごく働いた。
毎日毎日。


ラウンジのちいママしながら
ラウンジの閉店後はスナックのママして

借金の返済に追われて
ひたすら働いてた。



彼に会う時間もまともにはなかった。

楽器のメンテナンス関係の仕事をしていた彼。


馴染みのライブバーは店の近くに在った。

彼はそこの楽器の管理も任されていたから

彼がピアノの調律に行く時は
立ち寄って見てた。

長い指の動きに見惚れた。



私は
彼の仕事をしている姿が
たまらなく好きだった。


彼も
ホステスとして戦う私を認めてくれていた。


私が
いつどこで
どんな男と居ようが
やきもちのひとつ焼かないで居てくれた。

必ず自分のもとへ帰ってくると
信じて居てくれる人だった。

だから私は存分に働けた。





ラウンジ閉店後のスナックを始めて

客は更に増えた。


スナックは
客単価は低いものの
常に黒字をキープ出来た。



そこにも
いろんな人間ドラマが在った。



深夜から朝までひとりで店を開けてれば

迷惑な来客ももちろん来る。



泥酔した
見知らぬ人が入ってきて絡まれたり


本気になって通ってた客が

1対1になった途端に
ボックス席に引っ張り込んで
押し倒してきたり


怖い目にもあったけど

いつ刺されるかわかんないような店で
働いた事もあったおかげか

なんとか自分で処理出来ていた。





私がちいママをしているラウンジは

二号さんのママが男の金で出した店。


ママは田舎のお嬢さんで
地元で小さなスナックをしていたけど

地主の金持ちのおじさんの二号になって
街中のラウンジを1軒手に入れた訳。


ママは友達と
コンパニオンの会社も経営しててね

大きな会社の
イベントや宴会に呼ばれて会場に行き

そこでまた客を捕まえてきてた。



ある時

ママが
私にも
コンパニオンをやってみないかと言った。


あまり気は進まなかったけど

金になるから行く事にした。



ラウンジに
二号店が出来る話が
少し前から持ち上がっていたけれど

まだママは何も言わなかった。


続きはまた次回。











自分の想像以上に
傷付いた事に気付き

それをどう消化し

次からはどう対処すべきか


まだ痛みの中に居る自分に
買ってきた花。


買ってきた時よりも元気に
可愛く咲いてくれている。


私は
まだ日々考えて在る。












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クリック応援下さるみなさまのおかげで

私はここで
たくさんの方々に出会う事が出来ます。

ありがとうございます。





ここにこうして

自分の足跡や想いを

言葉にし
文字として放つ作業には

とてもたくさんの時間と
大きな労力を要します。


覚悟をして在るにも関わらず
痛み苦しむ事もあります。


それでもなぜ
醜い過去を晒して書き続けるのか。


摂食障害や
自傷癖を

掲げて表現をするのか。




ここにも書いてきましたが

いろいろな想いがありました。


そしてそれらは
今少しづつ変化を始めて居ます。


私の中で

これからどこへ向かうべきか
何を起こすべきか

考える想いが生まれ始めています。



ここに
昨年7月から綴り始めた私のイキザマが


現在の私に繋がるまで辿り着く時には


その想いも

言葉に
文字に

出来るようになって居たいと思います。




やっと1年と8ヶ月

自傷をせずに
息を吸って在りました。



私の心は
まだまだ未熟ではありますが

少し前の自分と並べれば

穏やかに痛みを消化しつつ

冷静に
己を覗けるようになり始めました。





現在このぶろぐは

少ない時で日に200程
多い時で日に600程のアクセスを頂いて

生かせて頂いて居ます。


そんな中
時に
驚くほどアクセスが上がる時があります。

今月では昨日が
現時点で最も多い
1日で700 を越えるアクセスを頂きました。

有難く思います。



偏在な私は
たくさんの毒を垂れ流してきたけれど

最近
毎日考えるようになった事があります。



やさしい言葉ってなんだろう。

どれだろう。

私はちゃんとやさしい気持ちで
動けているのだろうか。

貴方を想うフリを着て

私を想う言動を
し過ぎては居ないだろうか。


自分が思う
正しい形を探してる。




探し物が
私の中で増えた事は
とてもしあわせな事で

それは

みなさまに
日々与えて頂いて在れるからだと
思います。



感謝致します。


いつもありがとうございます。


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自傷に失ったひとつ。(卒業後・55)





雨が上がった。

陽が射してきた。

青空が戻ってきた。



濡れたアスファルトがキラキラしてる。


晴れた日が好きだ。


朝には太陽が
夜には月が
見えて在って欲しいといつも思う。




以前ライブバーで
隣に座った女性と話した時。

私は
「月下陽香」の名で活動している事を伝えたら


「ステキね」って。

「月も太陽も持ってて欲張りな歌姫さんね」って

キュートな笑顔で言って頂いた事がある。



月下陽香は

どこかに居る誰かの

「月」や「太陽」に
いつかなれるだろうか。











2013年から

月下陽香が

ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって 「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

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   ※7つの記事があります。

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過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私の足跡を記して在る途中。



この数回は
祖父が亡くなった時の事を書いて来た。

【「やさしさが足りてないから。 」(2014.1.23)】

【「いつも卑下しながら。 」(2014.1.24)】

【「自傷に泣いたあの娘に。 」(2014.1.25)】




おじいちゃんが死んで

その葬儀で

私は
小学生の頃以来のおじさんやおばさん
会った事の無いいとこにも
一度だけ会えた。

そして。
妹の顔も見る事が出来
母にも会ってしまった。




帰り際
会話も無く母が手渡した5万円。

何に使ったんだろう・・

支払いや
スナックで使う菓子なんかに

何の感情もなく
消えていったように思う。


うれしいとか有難いとか思わなかったんだ。




でも

おじいちゃんに貰った一万円札だけは

財布の仕切の奥にたたんで入れて在った。

使ってはいけないと思った。



それなのに私は
この数年後
この大事な大事な一万円札を使ってしまったんだ。





当時。

リストカットも嘔吐もどんどん増して行った。


私は
自分の中の不足を
もう全くコントロール出来なくて

腕を切り

喉に指を突っ込み食べた物を吐き続けてた。





その日は店は休みだった。

客との約束も入れなかった。


客の情報を書き込んだノートの整理や
売り上げの管理や
することは山ほど在った。
誰とも会いたくない気分でもあった。



突然

どうしても吐きたくなった。

何が何でも吐きたかった。

たまらなく吐きたかった。


そうしなきゃ発狂しそうだった。




化粧もせず
マスクをしてサングラスまでして
スーパーに行った。

万が一客に会ったら困るから
髪が顔を覆うように俯いて
売り場を急いで歩いた。


買い物カゴに
パンや菓子をいくつか入れた。
惣菜も2つ程入れた。


返済を済ませた直後で
明らかに財布の残金は足りない状態だった。

それでも自分の行動を止められなかった。




万引きしてやろうかとも思った。

ポケットに入れてやろうか
袖口に隠してやろうか
そんな考えが頭を過ぎった。

でも出来なかった。

レジに並んだ。

自分に問い詰めた。


お金はどうするの?




財布に在るのは
僅かな小銭と
おじいちゃんの一万円札。


世の中には
私には数え切れないくらいの
一万円札が存在するだろう。


でも

でも。

この一万円札は
この世にひとつしかないんだよ。


たったひとつなんだよ。




おじいちゃんの顔が浮かんだ。
最後に話した顔が浮かんだ。
最期に聞いた声を思い出した。




商品を全部売り場に戻して帰る事も出来る。

今ならまだそれが出来る。

何度も何度も自分に言った。


帰ろう。

何も買わずに帰ろう。



それでも私は
並んだレジから離れられなかった。



商品がひとつづつレジに打ち込まれてゆく。
嘔吐する為の食品が打ち込まれてゆく。



支払いの時がきた。

私は一万円札を出した。

おじいちゃんの一万円札を出した。


自分を

責めて

責めて

それでも一万円札を出した。



一万円札はあっさりとレジに入れられて
お釣りが返ってきた。




失くなってしまった。

失くなってしまった。


失ってしまった。




おじいちゃんに最期に貰った
大事な大事な一万円札。



手放してしまった。


みじめな自傷行為に利用してしまった。




帰宅して食べて嘔吐し

私は
大きな罪悪感に死にたくなった。

腕を切った。

情けなくて泣いた。

声を上げて泣いた。





今でも後悔してる。

ずっと後悔してる。


おじいちゃんの一万円札。


おじいちゃんが最期にくれた一万円札。



叶うなら
もう一度私の手に帰って来て欲しい。

もう一度会いたい。



今でも
ずっとずっと

大きく後悔をして居るまんま。


自分を責めて
後悔をして居るまんま。



おじいちゃん。
ごめんなさい。




今でも一万円札を見る度に思う。

きっとこれは
一生後悔したままで
私はあの世に逝くんだね。





おじいちゃんの事を綴る記事は

これでおしまい。



ホステスとして生きて居た私の過程は

【「危機感に囚われ。 」 (2014.1.22)】


次からは
この記事の続きを書いてゆくね。













悲しみの癒えを待つ自分の為に

小さな白い花を買った。

花の力を借りながら

自分に問うて在る。




なぜ
こんなにも悲しく痛むのだろう。



余裕の欠片もない
息継ぎにさえ苦労して在る状況で


穏やかに受け止める余裕に
欠けて居た事もあるのだろう。


でもそれだけではなくて。


それは今までにも何度か在り
その都度

「そこにその行動を起こす事は間違っていないか」と
私の心は思っていた事で。


なぜそう思うのか
ちゃんと考えようと思った。


でないと
この悲しみは
また繰り返されるように思った。

私はその都度
消化出来ない時間を繰り返してしまうだろう。

それではいけない。





だんだんとその答えが見えてきた。


それは

「月下陽香(陽)を 想って」
起こされた出来事ではなくて

「自分を 想って」
起こした出来事に

感じてならない私が居るからだ。


「共存」ではなく
「依存」を感じる私が居るからだ。


だからとても辛かったんだ。




飲み込んだ痛みをどう消化しようか。


再び同じ出来事が起きた時に
私は何をするべきか。

その時は想いを伝えても良いだろうか。


まだ癒えない悲しみと
大切に向き合って
一生懸命考えて居る。





こうして
ひとつづつ分析し消化してゆく事は

とても大切で

私には必要だと思う。


こうする事で

自分の中の不足の形を知れたり
自分が何を求めて居るのか
自分が本当はどうしたいのか

気付く事が出来る。



自分が
何をどう受け止めたから痛むのか

それを知る事で


自分の思考の原点や
パターンも見えてくる。




この作業を
繰り返して繰り返して

私の心は
やっと大人に近付いてゆくのだと思う。






痛みの中に居ながら

やさしい言葉が
こんなにもうれしい事である事に
改めて気付く私も居た。


この悲しみについて
その人に語った訳ではない。


何も言ってはいない。


でも。

何に痛んだのか
感じてくれてる人が居る。


そんな気がするような

やさしい言葉を頂いた。


そっと。
手を当ててもらったみたいだった。


そして

頂いた手作りのマドレーヌは

心にもやさしい味がした。





言葉の力。

文字の力。


もっと考えて生きて居たい。


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自傷に泣いたあの娘に。(卒業後・54)




1月もあと少し。


正月に休んだきり
毎日毎日必死で動いてる。


体力的にも精神的にも
本音を言えばとても追い詰められて居て

ものすごく疲れてる。


辛いなって毎日思ってる。




ゆっくり出来る時間が欲しいな・・


遊びに行ったりしたいな・・


歌いたいな・・

ライブがしたい。

ステージに立ちたい。


自分が育て紡ぎ生み出した歌を
ステージで歌いたいな・・




そういう事が出来る
体と時間と環境が欲しい。




投げ出してはいなくて
ヤケクソでもなくて

毎日毎日一生懸命踏ん張ってるけどね


私なんかでも
辛い時があるんだよね。

負けないけどね(笑)











2013年から

月下陽香が
ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。






おじいちゃんが死んだ。


小学生の頃以来会う事もなく
母が出て行ってからは全く交流もなかったが

母方の祖父・祖母には
幼い頃とても可愛がって貰った。


父方の家族とは
数回しか会った記憶もなくて

今どこで暮らしているのかも私は知らないのだけれど


母方の家族には
子供の頃可愛がって貰った記憶が在る。


その母方の祖父が亡くなった。


前回の記事

【「いつも卑下しながら。 」(2014.1.24)】

今日はこの続きね。




8月の名古屋。

良い天気だった。


私は
来賓席のいちばん後ろで
家族が順番に焼香する姿を見てた。


おじさんもおばさんも老けたなぁと
年月の流れを感じたり


小学生の頃
夏休みにはおもりしてた
幼かったいとこが

私よりもずっと背の高い
男の人になってる事に驚いたり

その子に弟が居る事を知ったり。



戸籍上では他人だけれど

この体を流れる血は繋がっている人達の今を
複雑な想いで見て居た。



葬儀が終わり帰ろうとした時

母と会ってしまった。


話はしなかった。



白い花が刺繍された
紺色のハンカチを渡された。

何かが包まれていた。


葬儀場を後にし
ハンカチを開けば
5万円が入ってた。







私が知る母は

3人の人間で構成されている。




欲しい物は絶対に欲しい。

嫌な事は絶対に嫌。

感情のままに暴言を吐く。

そんな

わがままで頑固な子供。




自分の思いどおりにならない者を許さない。

どんなに間違った事でも
正当化して押し付ける。

人の傷には鈍感で
自分の痛みには敏感で

言うべきでない言葉でも
自分の感情を処理する為なら
平気で突き付ける

計算高くて
ずるくて賢い

ヒステリックな女。




そして。母。


彼女は時々母になる。


子に依存した母になる。



腹を痛めて産んだ我が子が
可愛くない訳がない。


そんな感情に突然襲われて

私は悪い母親だと
急に罪悪感に襲われて


それを消化する為に

一時優しい母になる。



それに振り回されて

それでも愛されたいと頑なに想い

育ってきた私も


もう大人だからわかる。




久しぶりに見た娘に

彼女の中に在る3人の人間の内の

「母」が

この時は私に
金を握らせる事しか出来なかったんだろう。



そしてそれが
娘への愛だけに溢れた行為ではなくて

ふと押し寄せる
罪悪感を消化する為の行動であった事が

私にはもうわかる。


 
握らされた5万円に特別何も思わなかった。

ラッキーだなって思うくらいのものだった。


何を食べて吐こうかなってくらいのもの。






4時間ほどを掛けて帰ってきた。

ものすごい空しさに襲われた。


足に合わないパンプスのせいで

かかとにも
小指にも親指にも
水膨れが出来た。




妹は立派な喪服着てたなぁ・・


あの子は金には困ってないもんね。






あの日。

【「自傷と嘔吐に導く者は私の中で生き続けるから。 」(2 013.11.7)】


夜遅くにかけてきた電話。


「友達もいない。」

「毎日嘔吐を繰り返してる。」

「きっともうすぐ死んでしま う。」


そう言って泣いてた妹。



まだ摂食障害なんだろうか。



聞いてあげれば良かった。



続きはまたね。













花を買ってきた。

小さな白い花。


花はどれでも大好きだけど

白い小さな花を見ると

こつこつ頑張ってる気がして
一生懸命歩いてる気がして


ぐっとこらえて我慢してる気持ちを

わかってくれてるような気がするから

この花を選んだ。




今日ね。

今朝ね。

予想した以上に
深く傷付いた自分に

自分で気付いてしまったから。



されたくない事をされて
でもそれを伝える機会も失って
何もなかったように繕って
我慢して飲み込んだけど

それは本当はとっても傷付く事で。


陽をあてて水をやり
大事に大事に育ててる花の鉢に

勝手に穴を掘られ

望まない種を
埋め込まれたような気持ちは


まだ
しばらくは痛み続けるだろうから


早く許して忘れられるように

飲み込んだ事を後悔しないように

花の力を借りようと思った。



たくさん眺めて声を掛けよう。

やさしい気持ちで声を掛けよう。

自分にも
やさしい言葉で問うてあげよう。



そうして

静かに癒えを待とう。


きっともうすぐ大丈夫になる。



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いつも卑下しながら。(卒業後・53)





生きて在る内に

やっておきたい事が在る。


恐らくは
友人たちよりも
この人生は短く終えるから

朽ち果てる前に
急いで辿り着きたい場所が在る。



もうあまり

必要以上の我慢を重ねて

間違っては居ない自分を
押し殺し閉じ込めて

壊れるような選択はしたくない。



与え合える人と

惜しみなく与え合い

無駄に擦り減らす事なく
主張をし

向かいたい場所が在るんだ。



摂食障害や自傷と
30年も過ごしてしまって

やっとここに今立っているから

もう
理解出来ない足枷は要らない。


自分の力で

鎖を切り離し

考えて歩いて居たい。











2013年から
月下陽香が
ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって 「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。



小学生の頃以来
会う事もなかった祖父に会いに行った。

前回の記事 【「やさしさが足りてないから。 」(2014.1.23)】

今日はこの続きね。




末期のすい臓癌。


おじいちゃんは
懐かしい部屋で
介護用ベッドに横たわり

痩せ細り

それでも面影が在り
それが返って酷く悲しく

私は上手くは喋れなかった。



自分の財布から一万円札を出して
私にくれようとした。

それは
小さなキーホルダーになっている
ファスナーで開閉出来る黒い小銭れで

私の視界から覗ける中には
札はそれしか入っておらず


おじいちゃんは
それを迷いなく出して
私にくれようとした。



私は
おじいちゃんのくれた一万円札を大事に持って
名古屋から帰ってきた。




変わらない毎日に戻り仕事に追われた。
毎日毎日ひたすら飲んで働いた。


約1ヶ月後再び伯父から父に連絡が入った。



おじいちゃんが死んだ。




孫たちの中で
最後に会いに行ったのは私だったらしい。

以後
日に日に弱り
静かに召されたらしい。



悩んだが店を休んで名古屋に向かった。

母にも
妹にも
会ってしまうのだろうけど向かった。




赤いメッシュを入れていた長い髪を
自分でショートにして
黒いスプレーを振って。

衣装ばかりが並んだクローゼットから
いちばん地味な黒いスーツを選び

靴は
足に合う無難で地味な物が無くて

痛くて長くは歩けない黒いパンプスを
無理矢理履いて葬儀場に向かった。




行って直ぐに
おじさんが私を見付けてくれた。


幼少期大好きだったおじさん。

幼稚園児の私は
おじさんのお嫁さんになるって
いっつも言ってたくらい大好きでね
可愛がって貰ってた。


おじさんが結婚する前には
おじさんの彼女が
幼い私が傷付かないか気にしたくらい

私はおじさんになついてた。



小学生の頃の夏休みは
よく名古屋に預けられて。
おじさんの家にもお世話になった。


そこにはね

母親から日々押し付けられるような
抑圧が無くてね。

居心地が良かったの。



おじさんは貿易会社の偉い人でね
しょっちゅう海外に行ってて。

奥さんはとってもお育ちの良い才女でね

夜な夜なふたりで交わす会話は
英会話だったりするんだよね。

かっこいいなぁって
子供の私は思ってた。



おじさんの家の朝食はね

トーストとコーヒーと
目玉焼きとサラダと

奥さんが前夜から作ったプリンが出るのね。


うちは
白ごはんと

今は大好きやけど
当時は大嫌いだった納豆が
パックのまま出されて

食べなきゃ平手が飛んできてたんやけどね。


おじさんとこはプリンも2種類あって。
プレーンとコーヒー味が選べたりしてた。



夏休みはよくそこで
おじさんの子供
私のいとこやね

その男の子のおもりをしてたんだ。


そんな記憶がいっぺんに巡った。




記憶を追いながらのおじさんとの僅かな会話。

私は数珠を忘れて来た事に気付いた。
おじさんが自分のを貸してくれた。





葬儀が始まる前 妹に会った。


そうだ。

私。
ここで妹に会ってたんだ。



こうして過程を綴って思い出した。

そう。


ここで私は彼女に会ったんだ。





特別何も話さなかった。


なぜなら

妹が

とても迷惑そうな顔をしたから。



余計な会話のひとつもなく

「こっちっだから」と案内された。



喪服の妹の背中を
履きなれない靴で追い掛けて

案内されたのは
来賓者のいちばん最後の1席だった。


そうだよね。

家族じゃないもんね。



おじいちゃんの葬儀が始まった。



この続きはまだあるから
次回に書くね。













練習も行けず。

痛んで傷んで

我慢して飲み込もうとしながら

どうしても辛くて


練習は断念したものの
ギタリストさんにグチをこぼしてしまった。



そしたら。

ポストにね

カラフルに絵飾った手紙を届けてくれていた。



やさしい言葉がいっぱい。


簡単に打ち込める文字じゃなくて

一文字一文字

手書きで

絵を添えて


そこには書かれて在った。




彼に
私の痛みがリアルに伝わるとは思って居ない。


実際に彼も
「わかる」と言うには難しいと言う。


でも

「辛いやろうなぁ」
「しんどいやろうなぁ」って

想う事は出来ると。



月下陽香のギタリストは
摂食障害でも自傷癖でも無い。
正常な大人の男性。

だからわかんなくて当然。


でも

わかろうと

こんな私を理解しようとしてくれて居て。



だから私は
あと少しだって怯えながら
彼と奏でたいと
強く想うんだろうね。




今日は良いお天気。

あんぱんまんのカステラをつまんだ。
器はもちろん私が作った物ね。


さぁ。行ってこよう。



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やさしさが足りてないから。(卒業後・52)




がんばっている。

がんばるのはね
当たり前の事。

でも。

その頑張りは
毎日毎日限界を超え過ぎてる現状。



やりたい事を出来る体も
やりたい事を出来る時間も
そこには無くて。


ものすごい我慢を
重ねて重ねて噛み殺して


叫び声をあげて
暴れてしまいたいくらいの悔しさを

ただただ押し殺して

頑張って居る。



眠る時間まで
頑張って作って
頑張ってそこで眠らないと

3時間程の睡眠も得られなくなってしまう。



誰かに八つ当たりをしたり
無意味に毒を吐いたり

そこまでひねくれたり
荒れている訳ではなくて。



私が
私の環境で生活をしてゆく為には
今はそれらが必要で

投げ出せるものではない事も
十分に理解は出来ていて。



でも。

24時間頑張って居る現状は
体力的にも精神的にも
大き過ぎる負担で。



まだしばらくはこれが続くから
何とかして心に
少しでいいから静寂が欲しいと願う。













2013年から

月下陽香が
ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって 「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。




過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私を記して在る途中。

前回の記事

【「危機感に囚われ。 」 (2014.1.22)】

この続きを書こう。






私はラウンジでちいママをしながら
閉店後の店を借りてスナック経営を始めた。



月曜日~土曜日まで


同伴がある日は
スナックの準備をしてから客と会い
共に8時頃に店に戻る。


ない日は6時頃には店に入り
ラウウンジとスナッ ク両方の開店準備をする。


8時には店を開けて
2時頃までラウンジのちいママとして働き

閉店後朝8時頃まで
カウンターに立ちスナックのママをする。


帰宅は朝9時頃。


僅かな睡眠をとり
前夜のお礼や営業の電話とメールをし
前日の売り上げを整理したら
シャワーを浴びて出勤。


日曜日は
ラウンジが休業日だから

夕方から日付が変わる頃まで
スナック営業をする。




借金を返しながらでも
少し前よりは金銭的に楽になっていて


通院する金もなかった頃に比べれば
その余裕はあるものの
その時間が全く無かった。


月に一度
1ヶ月分の最低限の内科の薬を貰い

睡眠薬や安定剤は
客から回して貰いながら
人前に立てる自分をやりくりしてた。








ある日。
父から連絡があった。


名古屋に居る母親の弟(私のおじさんに当たる人 ね)から
父に電話があったらしい。



父は
母と離婚後も
電話番号も変えずに
同じ家に住み続けていたから
連絡を受ける事が出来た。



私の母方の祖父が
末期のすい臓がんで
もう長くないとの事だった。




過程を綴る記事の中で書いた事があるが


私は

父方の祖父や祖母には
幼い頃に数回会ったきり
会わせて貰う事もなく

その顔すら覚えていない。


祖母はまだ生きているけれど
その居場所も知らない。


母方の
祖父や祖母や家族には
子供の頃はよく預けられたりもしていて

可愛がって貰った記憶がきちんとある。



母は祖母の連れ子で
祖父とは血の繋がりはなかったが

祖父は他の孫と同様に
とても可愛がってくれた記憶がある。





母が居なくなってからは
もちろん会ってもいなかった。



そんな祖父の余命が僅かとなり

幼い頃
いちばん可愛がってくれていた伯父が
私にも伝えたいと連絡をくれたようだった。





名古屋まで会いに行こうか悩んだ。

私はもう母の娘ではない。


名古屋のおじいちゃんやおばあちゃん
おじさんおばさん達とも

もう他人だから
行ってはいけない気がした。






悩みに悩んで行く事にした。


前もって電話を入れた。


小学生の頃以来のおばあちゃんの声を聞いた。

伺う日時を告げて電話を切り
後日向かった。






良い天気だった。
桃を1箱抱えて行った。



国道1号線から
左に曲がってすぐの
狭い路地を右に入れば

小学生の頃
何度も見てた光景があり


その頃は
すごく大きく見えて居た家が

とても小さく見えて

そこに在り。




玄関のチャイムを押せば
おばさんが出て来た。

日時を伝えていたにも関わらず

「どちらさまです か?」と聞かれた。


そりゃそうよね。


小学生だった私が
もう20代になって
派手な化粧してそこに立ってても

わかんないよね。



私である事を告げたら
驚いた顔で
でも優しく迎え入れてくれた。






二度と来れないと思っていた場所。



幼い頃妹と遊んだ玄関。

こんなに狭かったんや。




案内されたリビング。

おばあちゃんと
ふたりのおばさんと

初めて会う
いとこの小学生の男の子がふたり

そこには居た。

母が居なくてほっとした。




この部屋。
こんなに狭かったんや。。






子供の頃
夏休みはよくここに預けられて

この部屋で
おじいちゃんおばあちゃんとテレビを見た。




テレビは当時と同じ場所に在った。


そのテレビの前。
窓際には
横たわるようにも掛けられる
白い大きなチェアがあって

おじいちゃんは
いつもそこでテレビを見てたんだけど



チェアはなくなって

そこには介護用ベッドが置かれて
痩せ細ったおじいちゃんが居た。


何を言えば良いのかわからなかった。





「おじいさん、めぐみが来てくれたよ。」

おばさんが言った。



「おお・・めぐみか。」



おじいちゃんが起き上がろうとした。

おばさんが手を貸した。




おじいちゃんが小さくて悲しくなった。


泣かないと決めていたから
歯を食いしばった。




ぽつぽつと話すおじいちゃんの言葉に

ひとつづつ答えた。

元気にしてたかとか
なんてない会話にね。

ひとつ

ひとつ。






おじいちゃんが言った。


「めぐみは頭のいい子だから」

「めぐみは優しい子だから」

「がんばらないかんよ。」




・・・・・・・・・・・・・・

おじいちゃんごめんなさい。


もう私は
あの頃みたいに
一生懸命良い子で居る私じゃない。

大人の言う事聞いて
お利口にしてる孫じゃないんよ。


もう15年も吐いとるんよ。

普通に食べる事も出来ないんよ。


リストカットもしとるんよ。


借金抱えてね
ホステスしとるんよ。


すごくずるくてね。
汚れてしまったんよ。

・・・・・・・・・・・・・・・


心で嘆いても言葉には出来なかった。






おじいちゃんが何か取ろうとして
おばあちゃんが取って手渡した。


手の平に乗るくらい小さくて

キーホルダーになってる
ファスナーで開閉出来る黒い小銭入れ。




おじいちゃんはそこから

4つに折りたたんだ一万円札を出して

私にくれようとした。


申し訳なくて断ったけど

おばさんが
貰ってあげなさいって言って

私は頂く事にした。




私が一万円札を受け取ると

おじいちゃんはまた横になり


目が開いてるから起きてるんだろうけど
生きてるのかわかんないくらい静かで


そのおじいちゃんを見ながら
おばさん達と少し話して



私は帰った。





10年以上も時間が流れて

やっと会えたおじいちゃん。


これが
私の知るおじいちゃんの最後の姿だった。




この続き。

次回に書くね。














こうして
自分の生きて来た足跡を書き出す事を始めて

半年が過ぎる。



実体験を言葉にし
文字として放ち続けるこの作業には

とても大きな労力を要する。


体力的にも精神的にも
大変な労力と共に覚悟が要る。



それでも続けながら

自分の中の変化を日々感じて在る。




書こうと思った動機は

基本的には
書き続ける今の感情と
あまり変わらないのだけれど


だんだんと目的が変化してきてる。


伝えたい想いの内容が変化を始めてる。


向かいたい方向が変化をしてきてる。




それが何なのか
どこなのか

変化をきちんと受け止めながら


これから自分が選ぶ形を
自分の中に確立する為には


この過程を綴る記事を
今の私に繋がるまで
必ず書きあげようと思う。




1年と8カ月

自傷から離れて在る私は

そこに戻らない私で

書き続けてゆきたいと強く思 う。





毎日いろんな事を考えているけれど


正直
ストレスに潰されてるこの数日は


今の私の
悔しさや寂しさ
焦りや我慢や苦痛を

理解してくれていると
感じられるやさしさが欲しいなって


改めて思ったりしていて。




だからこそ

「言葉」が持つ力とは何か


またとても考えて居る。




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危機感に囚われ。(卒業後・51)




残念ながらぐったりである。

体も心も目一杯疲れてる。


あ。
決して落ち込んでやさぐれてる訳じゃなくて。


ちゃんと前を向いて在るんだけど
「継続する事」と
「終わらせる事」と
「始める事」を
今同時進行しなきゃいけない所に居て

使い果たして居て

もうしばらくは
日々を消化するだけで
きっといっぱいいっぱい。



そんな中頂いた深い大きなメール。


私の中で
昨年後半あたりから変化を始めた想いが在って

それに直結するような文字に

改めて
今の自分を自分で知ろうとして居る。



もう少し身辺を落ちつけたら
言葉にしたいと思う。











2013年から

月下陽香が
ステージの上で必ず口にして真ん中に掲げてきた

「摂食障害」

「リストカット」

「自傷」。


私にとって 「摂食障害」と「自傷」は
人生のほとんどを埋め尽くすものである。


これらと共に生きた20年間と
向き合って生きる事を始めたこの10年間を経て。


摂食障害や自傷の始まりであった
小学生の頃から現在の私に至る足跡を

2013年7月7日以来
記事として書き続けて居る。


綴ってきた記事は
「かてごり。」に 時代別に分けてあります。


【「1・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(小学生の私)】
   ※4つの記事があります。

【「2・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(中学生の私)】
   ※7つの記事があります。

【「3・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(高校生の私)】
   ※12の記事があります。

【「4・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(大学生の私)】
   ※17の記事があります。

【「5・自傷と共に生きてきた過程の始まりから。」(20代前半の私)】
   ※現在執筆中。



過程を綴る記事は
昨年に引き続き
20代前半頃の私の足跡を書いて居る途中。



水商売の世界に身を置く事を選んだのは
まず金が必要だったから。

そして。
裏側をとことん見てやろうと思ったから。



必要だった金は得るどころか
水商売を始めて早々に借金を増やす事となり

昼間の仕事で返せるような額ではなく

また
騙されたこの世界で取り戻してやりたかった。



人のずるさや欲深さも
ここでは剥き出されて見えた。



摂食障害も自傷もひたすら隠しながら

私は
「ホステス」と言う衣装をまとう事で
当時を生き抜いたように思う。

それさえも
今思えば

全てがどこかで
自傷とリンクしていた事に気付く。




あの頃出会った彼女は
余りにも自分の欲に正直で
何にも揺らがぬ強さを持ち

だから当時の私は
彼女を好きにはなれなかったんだろう。



前回の記事

【「潔く汚れる彼女。 」 (2014.1.20)】

この続きを書こう。





私はちいママとして働きながら
ひとつ新しい事を考え始めた。


早く借金を返済したい。
自分の店を持ちたい。
男に飼われてではなくて
自分の力で店を持ちたい。
とにかく金が必要だ。



勤めてるラウンジは深夜2時頃に閉店する。
これは使えると思った。


閉店後朝までの時間と
ラウンジの休業日

店を貸して欲しいとママに頼んでみた。


家賃30万以上する店の営業時間外を
光熱費と食器等の使用料込みの
月5万程で貸してくれないかと。


その時間帯で使う
アルコールやソフトドリンク・フード・ おしぼり等は
自分で用意するからと。


店は
使わない時間を有効利用出来るから
悪い話ではない。
ママは了承してくれた。


私は
閉店後
広い店内に仕切りを立て

カウンター席だけを使い

ひとりで低料金のスナックを始めた。


そこでは女の子は雇わない。
だから付きっきりの接客は無い。
カウンター越しにひとりで全員の接客。

その分
2時までのラウンジと比べれば
半額をがっつり下回る低価格設定。


客に
県のカクテル協会の会長のおじいさまが居たから
ボトルを入れなくても楽しめるように
その教室に行き
リキュールを学び
シェイカーの振り方も覚えた。


簡単な食事も置いた。
帰りには
サービスであたたかい味噌汁を出すようにした。



閉店後

まだ飲み足りない客や
小腹が空いた客は

その後の行き先が決まっていなければ
そのまま残ってくれる事も多かった。


知らない店に連れて行かれるよりも
同じ場所でアフターが出来ると安心だと

女の子が一緒に残ってくれたりする客も居た。

そういう時は
女の子の飲食代の払いは客になるし
私が相手をしなくても
女の子がやってくれるから
女の子のセット料金はとらないようにした。




カウンター席は8席しかない。

ひとりで
損ねずに全てを賄うにはちょうど良かった。


ラウンジのちいママの衣装のまんま
でも
それとは違う
気取らないママとして接客をする私に変わる時間。


繕って重ね着たナンバーワンで居続けたい私よりも
人として客と関われた。




ひとりで来る客が目の前に5人並べば

まずはその5人に共通した会話を探す。


ひとりひとりに話をふりながら
少しづつ絡ませて
ひとつの話題に
皆で参加している状況を作っていく。

それが出来なければ
ひとりではやっていけない。


誰ひとり
置いてきぼりにしてはいけない。




どんなに飲んで居ても
酔っ払ってなんか居られなかった。
気を抜く時間は一瞬もなかった。





ラウンジで働いた後
そのまま朝までカウンターに立つ。

毎日12時間は飲んで働いてる。

ものすごいエネルギーだった。





しばらくして
ラウンジに二号店の話が持ち上がった。

続きはまた次回ね。













当時の私。

今振り返るとね。

本当にね。
毎日毎日
ものすごいパワーを振り絞って戦ってた。


なぜそれが出来たんだろう。




ずっと思ってた。
今でもそうだけど。



長くはない。
今しかない。

あと 少ししかない。




1日でも早く
私は絶対に
自分が選んだ裏側の世界の
表に立てる地位を得たかったんだ。





今の私が
それ位のエネルギーを
出し惜しみ無く費やすのは


月下陽香のステージの上だね。

そして
この「癒え待ちよすが」かな。



日々の掛け持ちの仕事も
すごく大切に考えて
がんばっているけれど

表現の種類が違う。




過程の根本に在るものと

過程の中で感じ学び得たものは

繋がって在るけれど表現の仕方は違う。




月下陽香のステージと
「癒え待ちよすが」は

根本にあるものを
本気で出し切ってしまうから


当時に負けないエネルギーを
費やして在るように思う。




ここに言葉を綴るように
もっとステージに立ちたいけれど
私の体じゃもう
やはり数はこなせない。



今年決まってるライブは
まだ5月の1本だけ。


それまでに
せめてひとつ
ステージに立ちたいな・・。


来月には
5月の会場になるお店さまにもお伺いして
マスターとお話出来るように
環境も整えなきゃね。



いろいろ頭抱えてるけど

今生きて歌って在れるからこその
しあわせな悩みだ。





みんな元気かなぁ・・。
いっつも思うんだ。

メールとかお便りとかしたいんだけど
今余裕なくてね。

でもいっつも思い出すよ。


大好きな人達。


いっつも想ってる。

このしあわせをありがとうね。



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自己紹介。

月下陽香

Author:月下陽香
「月下陽香(げっかようこう)」の
ステージネームで
オリジナル楽曲を発信しながら

創作陶芸作家としても活動中。


このブログには
私がかつて
「摂食障害」・「自傷癖」と
共存して居た頃の出来事を綴った記事も
多く置いて居ます。


私にご興味を感じて頂ける
御訪問者さまや

初めてお立ち寄り下さった方は

まずこちらをご覧頂けると
このブログが見やすくなるかと
思って居ります。

【このブログ「癒え待ちよすが」について。】 ←クリック


リンクから
月下陽香のYouTubeなども
ご覧頂けます。


よろしくお願い致します。

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